2007年08月31日

コレ何かわかりますか?(第十四夜)



場所は三宮「そごう神戸店」の向かい側、JR三宮駅の南側・・・幅広い幹線道路の歩道にあります。遠めには船の係留杭のような形をしています。近づいてみると地下通路への出入り口で、人がようやくすれ違えるくらいの幅しかありません。今は塗装もやりかえられてきれいになっていますが、震災の頃までは古い構築物の風情をよく保っていて、階段ももう少し狭かったように記憶しています。当時のその通路の内側はまさしく昭和レトロそのもので、よくもまあ今日まで運良く残っていたなと思います。神戸に来て20年以上になりますが、ずっとこれがもともと何なのかわかりませんでした。今はひとつだけそこに残っています。


写真:左 出入り口付近/右 地下通路から見上げた景色


米田定蔵先生は御歳75の現役写真家です。昭和から平成まで神戸の街の移り変わりを撮り続けておられます。明石海峡大橋の計画が持ち上がったときに設計などに用いる全景写真を撮ったり、昭和30年代頃のエネルギーのかたまりのような場所だった三宮のジャンジャン市場(一説には金がジャンジャンもうかってしかたがない場所という意味だとも聞きました・・)の夜の光景などなど、神戸の港と街の記録をとり続けてきた方です。
最近も、元町のまちづくり会館で「神戸・まちかどの光陰」と題した展覧会をされていましたが、米田先生の記録写真で「コレ」が何かがわかりました。


写真:撮影/米田 定蔵
写真の下方に3列になった市電のプラットホーム出入り口がみえる



昭和40年代半ばまで市民の足として活躍した神戸市電(路面電車)のプラットホームと地下通路をつなぐ出入り口だったのです。米田先生の写真には道路上に平らな浮島のように頭を出したプラットホームと3つの出入り口が並んでいます。
市電が廃止され、プラットホームは自動車の道に均されました。ただひとつ歩道部分に位置した一番北側の出入り口だけが、奇跡的に取り壊されず、当時の名残りを留めています。昔から神戸に居られた方はすぐにわかったと思いますが、僕にはずっと不思議なものでした。場所的に言って、地下通路への入り口をそこにわざわざ設ける必然がないからです。
形といい、風情といい、時間が創るくたびれ感といい、このままずっと残ってほしいと思っていました。補修がされて少しきれいになりすぎたのが残念ですが、ともかくもつぶされずに残ってよかったと思います。

大正期に創設された神戸市電は20世紀の神戸を語るときにはなくてはならないものです。戦後まもない頃、省線電車(国鉄、現JR)が割れた窓ガラスに板などが打ち付けられていてとても暗かったのに対して、市電は窓が大きくて車内が明るく、ライムグリーンを基調とした車体は調和が取れていて人気があったと聞きました。また、市電や市バスの車掌は女の子の憧れの職業だったようですよ。


写真:撮影/米田 定蔵


市電は昭和40年代に廃止(昭和46年)されてから、魚の住家(漁礁)にするために80両くらいが須磨沖に投下されたようです。広島市内では神戸市電がまだ現役で第二の人生を頑張っているようですし、本山交通公園には広島から里帰りした市電の車両が屋外展示されています。マニアが全国から集まり、思い思いに写真に収めているようです。また、市電の小さな停留所におかれていたプラットホーム用の平らで細長い敷石は太山寺参道の敷石に使われていると聞きました。
それぞれの運命をたどっていますね。

なお、市電が走っていた頃、山陽電車は西代まで、神戸電鉄は湊川まで、阪急・阪神電車は三宮まででした。市電がこれらの間をつないでいたのです。市電の廃止に先立って、これらの駅間をつなぐ軌道が設けられ、電車をもたない鉄道会社:神戸高速鉄道が開業しています。軌道とトンネルを貸しているわけです。
  


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2007年08月24日

第十三夜 今と昔を売る店(後編)



丹波の名物はさておき、城下町というのはまた骨董品のよく出る町でもあります。篠山も丹波焼(立杭焼)、王地山焼(篠山藩の御用窯)、三田焼(青磁や志手原焼などの陶器)の郷に近く、古丹波、三田青磁などがよく出ます。僕がよく行くお店に「庄次郎」さんがあります。ご主人は奥山さんという方ですが、「庄次郎」は何代か前の当主のお名前と伺いました。

「庄屋さんをされていたのでしょう」と自信を持って尋ねると「いいえ!」(ありゃ!)「江戸時代では藩御用達の魚屋で魚屋(ととや)庄次郎と称していました。代々庄次郎と庄兵衛を交互に襲名していたので、私の代は庄次郎。だから、お店も庄次郎ですわ」とのこと。とても紳士的で、また博識な方で、町の魅力アップに取り組まれるなどアイデアマンでもあります。
 印象に残った庄次郎さんの言葉を紹介しておきます。
 「篠山で3代に渡って同じ商売をしているところはほとんどない。蓄積された暖簾(ノウハウ)と資本をもとにしてその時代と折り合いをつけていかないとダメみたいです。店の前を行き来する人の嗜好がずっと一緒だと思っていると、店はつぶれます。」
 永遠であるためには常に変わっていく必要がある、ということでしょうか。


写真:庄次郎さんのギャラリー

さて、城下町の景観に配慮して設計された「庄次郎」さんのお店は篠山城の堀の西側、御徒町の武家屋敷通りにあって、観光案内所兼骨董ギャラリー兼カフェになっています。僕は御徒町を読めませんでした。結構ポピュラーな言葉のようですが「おかちまち」と読むそうです。足軽よりは上のランクで鎧甲冑をつけることを許された歩兵のことだと伺いました。御徒町はそういう階級の武士たちの住居の集まったところで、たいがいの城下町にはあるようです。(たそがれ清兵衛のような世界をイメージしてください)。数十年前までご存命だった長老衆のなかには幕末に京都まで鎧兜をまとってはせ参じた経験がある方がいたようです(結局行ったけど時の情勢が決してしまっていて、そのまま帰って来られたようです。もし機転が利いた人がいてもっと早く行っていたら、生きて帰っていないかもしれません。生きながらえたその後の人生がどうであったかはともかく、こんな話にも「運」を感じます)。町の事を聞きながら、珈琲が飲めて、しかも時代を超えてきた骨董の品々も見られるというお店です。

 骨董は同じものはまずありません。それとの出会いは一期一会という言葉がふさわしい瞬間です。迷った挙句に次の機会にと思って行っても、もう他人の手に渡っています。こういうときは縁がなかったと潔くあきらめるしかありません。



少し時代を感じる器に、今この季節しかない花などを一枝さしてみると、なんとなくほんわかした気持ちになります。オーラの泉で三輪昭広さんが「花は自分を見てくれる人に精一杯の美しさを提供して、その人を幸せにしてあげようとしている。だから部屋には花を飾りなさい」と言われてましたが、少しだけ分かるような気がします。


  


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2007年08月17日

第十二夜 今と昔を売る店(前編)


写真:篠山城周辺 観光案内図

実は骨董に興味があります。
古丹波や古伊万里(古がつくのは主に明治よりも古いもののようです)、ムシロやよしずを編むのに使った重り用の木切れ、当時は各家庭で使われていた、はたおり機や糸巻き機の部品、大正から昭和初期頃の振り子時計などなど、時代を感じるものに気持ちが揺れます。陶磁器などは壊れるものが壊れずに今日まであるというところに、そのものがもつ力(運の強さ)を感じるのです。お皿でも徳利でも同時期に同様のものがたくさんつくられていますが、割れずにそれが残るにはなにか運と縁があるように思えるのです。また生活の中で人の手によって使われ、ぴかぴかに光るようになった木なども、時間が創りだす味を感じます。

不思議なのですが、多くの人の手を渡り歩いた骨董品をいくつか並べていると、当分はこの人のところに仮住まいするんだな・・・やれやれ少し休むか・・・といった「ちょっと一服」の気配を感じるのです。そして力を充電して、また時代と人を渡っていくのでしょうね(骨董は時間の渡り鳥のように思えます)。


写真:篠山城のお堀端から篠山市内を望む

僕の郷里の篠山は譜代大名の青山3万5千石(だったかな?と思って聞いてみると6万石でした)の城下町です。近年丹南町、西紀町、今田町などと合併して篠山市になりました。名物はいろいろあって猪肉・・・「ぼたん」といいます。赤みと脂肪の白さが際立ち、上手にまくとボタンの花のように見えます。ちなみに最近よく出没している鹿は肉が赤みがかっており「もみじ」と称されます。ほかにはヤマノイモ、マツタケ、黒豆、栗、丹波焼などもあります。
そして、夏の篠山といえばデカンショ祭りがあります。「どっこいせぃ」「出稼ぎしょ」
から旧制高校生がつくったという「デカルト・カント・ショウペンハウエルの頭文字をとった」というものまで諸説紛々。民衆の踊りですから最初の説などが常識的だとは思いますが、お盆の15・16日に行なわれます。

また、あまり知られてはいませんが、篠山市から隣りの丹波市にかけては日本でもかなり低いレベルの分水嶺があったと思います。旧西紀町の小唄にも「瀬戸にながれよか 日本海か」というところがあったと記憶しています。加古川か由良川か、降った雨がどっちに流れるか悩むのです(?)。日本各地に「水分かれ」とか「泣き別れ」とかの分水嶺を現す地名があるようです。丹波市の柏原は、今は加古川水系ですが、大昔は盆地にあった湖沼で日本海側の由良川水系ともつながっていたときがあり、川魚の分布にもその痕跡があるようです。

ともあれ、分水嶺の町は水がきれいです。きれいな水があるところにはおいしいお米が取れます。だから丹波のコシヒカリなどは知名度の割にはおいしいと思っています。
(つづく)  


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2007年08月10日

第十一夜 その男・・ジョージ



元町の路地裏にDEEPというBARがありました。
閉めて2年くらいになります。
不思議な魅力のバーでした。

まずアプローチがどこにあるのかよくわからない。ショップカードの地図からはなかなか行き着くことは難しいと思います。隠れ家的な味を狙ったということですが、誰もわからなかったら営業はどうすんの?とも当時は思いました。
路地裏の暗がりに無言で闇と同化したような感じの入り口がありました。初めて行った者には、入り口に足を踏み入れてからがまた不安。どこに続いているのかわからないような暗くて細い工事現場のような所をいくと横手にドアがあり、そこを開けると桃色の霧に包まれたような店内がありました。
 グランジロックのBGMが流れるカウンターの向こうでシェーカーを振るバーテンダーこそ・・・その男・ジョージ。
ジョージといっても日本人です。なぜジョージなのかは聞いたと思いますが、忘れました・・・大事なことを忘れてこそ酔っ払いです。

 BARの楽しみ方「元町スタイル」とでもいう感覚があると思っています。
 若い女の子が1人でもくるのです。元町のおしゃれなBARではそんなシーンをよく見かけます。そしてその場で仲良くなったりします。
 
 いけばなの吉田泰巳先生は元町をこよなく愛する酔っ払いの1人です。先生にはいろいろな店を教えてもらいましたが、その中でもDEEPは雰囲気が抜群によいBARでした。残念ながら、震災の影響もあって雨漏りがひどくなり、建物が使用できなくなったようです(写真で紹介している煙が立ちのぼる拳銃のハガキは2005年1月の「DEEP FINAL PARTY」のときのものです)。



ジョージはDEEPの閉鎖後、英国を小旅行してパブの雰囲気を吸収し、現在は南京町の路地で「Ringo」というお店を開いています。よもすがら若い子達で賑わっています。(Ringoのことはまたの機会に!)

 なお、DEEPの経営者は小川さんという方ですが、現在もトア・ウエストの一角で「3D」という隠れ家的なBARを経営されています。こちらも不思議なBARです。一時は病院で使われる点滴用の袋が天井から一杯ぶら下がっていました。
落ち着いた雰囲気なので、カップルで静かに話すのにピッタシですよ。

















写真:DEEPのあった路地裏の暗がり 




P.S
これもいけばなの吉田先生から聞いたことですが、DEEPや3Dには「いちご白書をもう一度」などのヒット曲があるバンバンのばんばひろふみさんがときどき来ていたようです。運がよければ3Dで逢えるかも・・  


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2007年08月03日

第十夜 陸にあがった洋食屋さん(レストラン「ハイウエイ」)


写真:小出楢重作のおしゃれな機関車

神戸の洋食屋さんで紹介しましたが、西洋と神戸を結んだ日本郵船の客船「浅間丸」のコックさんが始めた洋食屋さんのひとつにレストラン「ハイウエイ」があります。
神戸の外国人たちが北野町の住居(異人館)から(旧)居留地の仕事場に通った通勤路であるトアロードにお店があります。水色で書かれた看板は目立たないですが、どことなくレトロな感じを今に伝えています(直感的にいいますとレトロモダンの感覚は神戸らしいと思っています)。
阪神大震災では一時、別の場所での営業を余儀なくされましたが、元のトアロードに戻って営業されています。

 1932年(昭和7年)にオープンしたこの洋食屋さんを「ハイウエイ」と命名したのは、知る人ぞ知る文豪谷崎潤一郎先生です。初代の大東氏が谷崎潤一郎先生と懇意だったらしく、縁あって名付け親となったようです。谷崎先生は確か関東大震災(大正12年)で神戸に避難してきた文化人の1人です。
 時を同じくして、大正から昭和初期にかけての阪神間の繁栄、ロシア革命などによる亡命ロシア人音楽家などの活動、等々が重なり、西宮から芦屋、神戸にかけて独特のモダニズム文化が形成されていました。
洋画も当時は前衛芸術のひとつです。洋画家たちのなかにも、午前中は芦屋などのアトリエで仕事をして、午後はトアロードのカフェでくつろぐといったライフスタイルを楽しんだ人がいました(洋画家小出楢重などはそんなひとりです)。
 そんな時代背景のなかで、谷崎先生も大東氏とめぐり合ったのでしょう。銀河の中心核のような、人・もの・情報の磁場ができていたのだと思います。


写真:ハイウエイの入り口付近

明治の開港がなければ神戸の繁栄はなく、神戸の繁栄が無ければ日本郵船は神戸になく、関東大震災がなければ谷崎先生は関西になく、谷崎先生が初代のオーナーと知り合いでなければ「ハイウエイ」という名の店はない・・・・∞。
歴史の偶然は必然の絡まりのように奇なる運命の軌跡を描きます。
 街の物語(文化)を掘り下げるときの面白さがここにあります。

 現在、ハイウエイを切り盛りするのは3代目マスターの實さんと娘の恵子さんご夫妻[ご主人は村上志恒(しこう)さん]です。
4代目になる村上さんご夫妻は街の魅力発信に熱心で、神戸コンシェルジェマップで神戸ビーフ、パン、スィーツなどのお店を紹介されるなどの活動を仲間たちと一緒にされています。

 僕のお薦めはやはりシチュー料理と網焼きステーキです。
 ある本では、東京の洋食は揚げ物が多いのに対して、神戸ではシチューに伝統の味が残されていることが多いという紹介がりました。船上では油は危険だったからでしょうか?
 ともあれ、静かで、シンプルな空間はチリリンというドアベルの音とともに、味のタイムスリップを経験させてくれます。

P.S
レストラン ハイウエイは平成19年11月に、
おしゃれなトアロードから神戸らしい北野に移転されてます。
住 所: 山本通2丁目2-13
URL: http://www.kobe-highway.com/  


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