2007年11月30日

第二十六夜 「丹波焼 グループ窯(よう)」

丹波焼は第二十四夜の「土をねる人」で同級生の市野雅彦とともに紹介しましたが、その将来を背負うであろう、さらに若手のグループを今回は紹介したいと思います。
 グループ窯(よう)です。現在のメンバーは8人で活動していますが、これは固定されているものではなく、若手が一時期をこのグループで活動しては、一定の力をつけてくると後進に譲っていくというシステムをとっているようです。このグループは、お互いに感性と技術を刺激しあう場になっているとともに、いろんなところで展覧会を行なうことで、多様なネットワークを築いていくという若手陶芸家の揺りかごのような機能を果たしているようです。

 今回そのメンバー4人が元町3丁目にある元町カルチャー倶楽部6階の「ART GALLERY 10(アート・ギャラリー10)」で作陶展を開催しています。
(元町カルチャー倶楽部はJR元町、阪神元町駅の西口を出て、元町商店街を神戸駅方面に歩いてすぐです)


◇市野 勝磯さん(1973年生まれ)
 以前は四角い造形をされていたようですが、最近は球面を意識した器づくり に取り組んでおられるようです。月面のようにザラザラした器面は、彫刻の型をとる石膏のような印象を受けました。


◇市野 雅利さん(1970年生まれ)
 僕は江戸後期の白丹波のフアンですが、この方の作品には今も多くの人を魅了する白丹波の柔らかさが現代的な感覚で息づいているように思いました。縦縞模様も柔らかくていいと思います。


◇大西 雅文さん(1980年生まれ) 現代陶芸はガス釜が多いようですが、この方は登り窯を使っておられます。作品にも登り窯独特の味が出ているように思いました。僕が伺った日の当番は大西さんでしたが、若くておしゃれな感じをうけました。


◇清水 剛(1975年生まれ)
 今回の展示の中ではもっとも作品がバラエティに富んでいたように思います。ゾウムシのような形をした花器が目を引きました。

以上は独断的な感想です。実際に器に向かうとなかなか面白いものです。興味がある方は一度行ってみてください。
入場は無料です。12月9日(日)まで開催されています。








  


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2007年11月22日

第二十五夜 「どこにあるかわかりますか?」

“ジャズのプレート”
 大正12年に井田一郎が日本で最初のプロのジャズバンド「ラッフィング・スターズ」を神戸で結成したことから、神戸は日本のジャズ発祥の地とされています。
 毎年10月にはジャズライブをハシゴするというユニークなイベント「神戸ジャズストリート」が開催され、日本全国からトラディショナルジャズフアンが集まります。その初日に北野坂をジャズバンドが行進していましたが、その北野坂と山手幹線の交差点の北西角あたりに今回の写真のプレートが埋め込んであります。北野坂にはあと何箇所かこのプレートがありますので、捜してみて下さい。プレートはジャズストリートの何回目かの記念に作られたそうで、北野坂を通称ジャズストリートにしたいという熱い思いも伝わってきます。サックスの形をJAZZの「J」に見立てていて、おしゃれなプレートだと思います。

写真:ジャズストリートのプレート

“ペンキを塗る人たち・・・”
 雨にも負けず風にも負けず、暑さにも寒さにもまけず、毎日休まずペンキを塗り続けている人たちです。
無言です。街も港に出入りする船もまったく興味が無いようです。
 そろそろご自分たちも塗り替えが必要かもしれませんね。
 ハーバーランドレンガ倉庫の向こう岸の建物のうえで作業をされています。
 何人いるか数えてみてください。

写真:ペンキを塗る人たち

“ぶら下がる者あり。”
 この方は部屋の中をのぞいているのでしょうか?
 じっとぶら下がっておられます。右手の握力は相当なものだと思います。
 毎日、昼も夜もじっとぶら下がっておられます。裸ですので日に焼けて背中が茶色くなっています。でもおなかも茶色ですので、もともと地黒のようです。
 シャイなのか、お顔はよく分かりません。温かみのある背中から推測するに、とても情の濃い方だと思います。
 新開地のラウンドワンの向かい側のビルにおられます。

写真:ぶら下がる者

“にこやかに見送る者あり”
 うっとりとにっこりと今日も電車で西へ東へ向かう人たちを見つめています。
 旅の安全と世界の平和を祈っているような神々しさがあります。
 微笑みの下には、親戚が北海道の○○ホープで「牛」とラベルされて売られたという悲しい物語があるかもしれないですね。
兵庫駅から大阪に向けて発した電車から見えます。電車が動き始めてすぐの北側のビル(中華料理屋さん)の2階で、悲しみも不安もすべて包み込む微笑の道祖神みたいに、電車の人たちに心で手を振っています。

写真:しあわせを祈る豚

  


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2007年11月14日

第二十四夜「土をねる人・・・市野雅彦」


写真:市野雅彦作“彩泥器”

丹波焼は平安の頃からの陶器で、兵庫県では丹波立杭周辺は焼き物文化の中心的な位置を占めています。常滑、備前など六つの古くからの窯に数えられています(六古窯)。日常の様々な器が作られてきており、水甕や徳利、特に徳利は種類が豊富です。江戸時代の初めまでは水漏れ防止に使った仕上げの土が赤く発色したことから、赤どべと言われる器が造られます。土のよいのが取れなくなり発色も茶色くくすんでくると栗の皮みたいな色から栗皮釉(くりかわゆう)といわれています。江戸後期になると、伊万里などの白磁に負けまいとして白い土を使った白化粧(白丹波)が造られるようにもなります。
徳利には酒屋の名前を書いたものが多く出ています。通(かよ)い徳利とか貧乏徳利とか言われますが、これは、当時のお酒やしょうゆが計り売りされており、徳利を買う余裕が無い民衆が酒屋に徳利を貸してもらい、それでお酒などを買っていたためについた名前です。計り売りする時の注ぎ口が施された容器が片口(かたくち)の鉢です。生活文化が伝わってきます。この通い徳利などは、いまでは居酒屋のデスプレイに使われるくらいです。多く出回っていたものなので、骨董屋さんでも3~5,000円くらいであります。


写真:大雅窯


「200年後にはこれが丹波焼や!!と言われるかもしれん。そんな思いで造っとるんや」
 これは僕の同級生であり、いまや日本を代表する陶芸作家となった市野雅彦の言葉です。

「おう、よう来たな」
名前が売れても、作品が売れても、本人はいたって素朴で高校時分の飾り気のない風采と言葉で迎えてくれます。
 「大雅(たいが)窯」という看板を背負って、丹波立杭の静かな自然と向かい合って、今日も面白い作品を創り続けています。素朴さとあったかさと茶目っ気とが色彩の妙で造形され、炎との対話を通して一つひとつの作品に凝縮されています。

 雅彦は作風を意識的に変えようとしてきたと言ってました。
「今あるフアンを失うことになるかもしれんと思うと、やはり変わっていくことは怖い。けど変わらんかったら、新しいフアンを獲得することもできん。生き残るためにはやっぱり変わらんといかん」といいます。


写真:大雅窯標識


国道176号線の古市交差点から左折して国道372号線に入り、コンビニエンスストアのある四斗谷の信号を左折して数分走ると、小さな赤い矢印の道標が「大雅窯」のある山すそに導いてくれます。この矢印にはイカの足のようなものが何本か生えています。見ようによっては日干しになった赤いスルメイカのようにも見えます。このとぼけた道標は雅彦の感性をよく表しているように思います。なんとも「ほほえましい」のです。作品にもそんな感覚が良く出ています。
 
 2006年から兵庫陶芸美術館が開館しています。神戸からは1時間以内に行けるところです。
  兵庫陶芸美術館 http://www.mcart.jp/

  なお、2007年11月14日(水)から20日(火)まで大丸神戸店7階の美術画廊 で展覧会「市野雅彦・陶遊展」・「然(ぜん)」が開催されます。入場は無料ですので興味のある方は行ってみてください。



写真:大丸神戸店・市野雅彦展から  


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2007年11月12日

第二十三夜「三宮・・夢のかよい路(2)」


写真:1963年 ジャンジャン市場/撮影 米田定蔵


ジャンジャン市場はそごうの向かい側で今のマルイの辺りにありました。ジャンジャン市場については写真を提供していただいた米田定蔵先生の記述がそのものズバリを語っていると思いますので引用させていただきます。
『三宮といえばジャン市だ。敗戦後、三ノ宮駅から神戸駅にかけての高架下は食料、衣料、薬品など、何でもありの闇市だった。全国でも最大級の闇市と言われていた。三ノ宮駅の東側はより複雑で、その闇の深さから国際マーケットと呼ばれていた。
(中略)
闇市に集まってくる人々のエネルギーを供給していたのが三宮交差点西南の一帯で、いまはセンタープラザ東館に吸収されている地帯はバラックや屋台の飲食ゾーンだった。食えるものなら、イモのつるでもトカゲでも、酔えるものならメチルアルコールだってけっこう、という時代だったから、麦飯やどぶろくは引っ張りだこで胃袋に流し込まれていた。
そごうの東南一帯はイーストキャンプと呼ばれた占領軍の基地で、基地から流出した、あるいはくすねてきたバターやコーンビーフの缶詰も豊富だった。「じゃんじゃんもうかってしょうがない」ところから「じゃんじゃん市」となった。下水道が整備されておらず、おけから小便がじゃんじゃんこぼれ落ちてもいた。
つまり、三宮は場末だった。
(後略)』
(文:米田定蔵/神戸芸術文化会議発行の機関誌こうべ芸文『三宮界隈の記憶』より)

ジャンジャン市場は「こわいところ」という見方もあったようですが、若手の絵描きや小説家の卵、かけ出しの新聞記者なども集まり、芸術論を戦わせた場所でもあったようです(のちに大成された人も多いと伺いました)。一般人にとって食べるということが現代よりもはるかに大切だった時代に、何でも食べることができたジャンジャン市場は、エネルギーの源のような場所だったようです。
「神戸の風」を書かれた林五和夫先生は、その中で、ジャン市にいた幻の美人(彼女見たさに一晩に7回通った人もいたとか)を懐かしく振り返っておられます。
ジャンジャン市場は昭和40年代の初めには整理されてしまい、今は跡形も無くなっています。


写真:サンパルから見た国際マーケット跡地

一方の「国際マーケット」の場所はJR三宮駅の東からサンパルの北側辺り。縄張り争いから拳銃の音が響き渡ることもあり、その複雑さ、闇の深さは実力だけが頼りの世界だったようですが、同時に生き残るためのスキルを磨く場所でもあったようです。
ジャンジャン市場が主に飲食店街だったのに対して、国際マーケットは生活雑貨が中心だったようです。各店の入り口は昼でも暗く、1階も2階も非常に天井が低かったと聞きました。

ややこしそうで、怪しげで、それでいてエネルギーのカタマリのような場所からは多くの達人たちが生まれたことでしょう。混沌(カオス)が人を鍛え、そこで勝ち残った者たちが次のステージの競争にまた向かっていった時代です。

この国際マーケット跡地の一角も戦災復興(こんな言葉がまだ生き残っています)の最後の大規模事業として再開発が具体化するという新聞記事を今年の夏頃に見ました。新聞紙上にも「通称国際マーケット跡地」と出ていました。
この言葉にかつての記憶を思い巡らす人がどのくらいいるのでしょうか?
街の物語の上にまた新しい物語が覆いかぶさっていこうとしています。それ自体は仕方のないことですが、少なくなっていく実体験の記憶をもっている人たちが、その時代の証人として、語り伝え、また記録していてくださることをいつも願っています。

街も人も影の部分があってこそ、陽の当たる部分がより輝くものです。
  


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2007年11月02日

第二十二夜 「三宮・・夢のかよい路(1)」


写真:三宮交差点2007年10月



以前紹介した柳ジョージ&レイニーウッドの「フェンスの向こうのアメリカ」からの引用です。この歌詞は戦後間もない頃の横浜の情景がノスタルジーを込めて振り返られていて本当に名作だと思います。どの部分をとっても絵になるし、導入のマクラに使えます。神戸の話しを書くときに使えるということは、戦後の横浜と神戸が同じような物語を持っている証しでもあると思います。

エリアワンの角を曲がれば お袋のいた店があった
白いハローの子に追われて 逃げてきたPXから
今はもう聞こえない お袋の下手なブルース

このエリアワン・・米軍キャンプのあった場所の表記だと思います。
米軍キャンプ周辺の飲み屋で働き、リクエストがあればヤジの飛び交うなかでブルースも歌う。切なさとともに、生き抜いていく母の力強さも感じます。

神戸でエリアワンに該当するものがあるとすれば、イーストキャンプ、ウエストキャンプです。
イーストキャンプは現在の磯上公園辺りにあり、白人兵が中心。ウエストキャンプは黒人兵も多く、現在の神戸駅北側から新開地の間にあったと聞きました。かまぼこ型の兵舎が並んでいたようです。

デザインの山田芳信先生に伺ったことですが、多聞通りのウエストキャンプのゲート東隣りにあった福徳相互銀行の1階に「キャスバ」というダンスホールがあり、専属のフル編成のスイングバンドがあって、本国から空輸されてきた最新の譜面で毎晩演奏していたということです。そしてそこに出入りしていた黒人兵たちを介して、ダンス音楽やジャズのレコードが広まっていったということです。神戸の音楽文化の広がりに米軍キャンプの存在は大きかったようです。
また神戸には専属バンドをもつダンスホールも多かったようで、富士桜、あおい、新世紀、ソシアル、パウリスタ、アルドス、日綿クラブ、神戸クラブ、国際ダンスホールなどなど、神戸のダンス文化、音楽文化に与えた影響は大きいと聞きました。これらのダンスホールもほとんどが今はもうありません。

港では多くの物資が取引されます。
積荷を一杯にした船が神戸港に入ると、まず、積荷が海に投げ込まれます。当然はしけなどで回収され、どこかに売りさばかれていきます。陸揚げされるまえに減り、また、キャンプなどからも持ち出されていくのは想像に難くありません。
積み出し港での伝票と陸揚げ港での積荷とをチェックするアルバイトをしていた方が「先輩から帳尻の合わせ方をまず教えてもらうことから始まった」と当時を振り返っておられます。

終戦から昭和40年代初めにかけての神戸の活力のカタマリみたいな場所として知られたジャンジャン市場や国際マーケットは闇物資の売りさばきの場所でもありました。
(つづく)


写真:1987三宮 ※撮影 米田定蔵  


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