2007年12月27日

第三十夜 「CAP HOUSE」




日本3大がっかりというものがあるようです。名所として有名なので行ってみたけれど期待はずれ・・・という類です。札幌の時計台、土佐のはりまや橋のふたつは異論がないようですが(?)、3つ目がどこかというときに諸説あるようです。沖縄の守礼門、長崎のオランダ坂、名古屋のテレビ塔などなど・・・。
 神戸のトアロードもそのひとつだということを聞いたことがあります。
 このエキゾチックな名前に惹かれて歩いてみても、特に「なるほどこれがトアロードか!」というところはありません。
 トアロードは北野に住んだ外国人が旧居留地の事務所に通った通勤道路でした。トアロードの両脇にはパン屋さん、雑貨屋さん、カフェなどおしゃれなお店が軒を連ねていたことが、モダニズム写真の先駆者であった中山岩太(1895~1949年)さんの昭和初期の写真などで分かります。
 このトアロードの名前の由来については諸説紛々。
 大きな鳥居があったことから鳥居(とりい)ロード・・これが訛ってトアロード。
 英語で岩山を表すトアからきているという説。
 戦前にあった東亜(トーア)ホテルからきているという説などなど。

 ところでトアロードは神戸の華僑の方々が商売をした中心的な場所のひとつでもあります。三刃といって3つの刃物がキーワードになっていて、カミソリ(床屋)、包丁(中華料理)、ハサミ(仕立て屋)を表すようです。この三つの刃物のどれかを身につければ食べていけるということを意味するようです。





このトアロードを登りきり、左折してスグの山手に古いビルがあります。このビルは1928年に作られた移住センターで、ブラジルなどへの海外移住をした人たちが、船出するまでの短期間の仮の住まいとしたところです。明治(1868年)から1971年まであいだに日本から海外へ100万人を越える人たちが新天地を目指したようです。神戸港からそのうちの約4割の人が旅立ったということです。石川達三の小説「蒼茫」の舞台となったところです。
現在このビルは神戸移住資料館となっていますが、同時に広く知られた芸術空間でもあります。廃墟同然だったこの建物を芸術交流の場と位置づけて、1999年に190日限定の芸術実験を行ったのがC.A.P(The conference on Art and Art Projects/芸術と計画会議)のメンバーです。そして2002年春からはC.A.P HOUSE(キャップ ハウス)として、アーティストが集い、制作し、人々が交流し、新しい価値を創造していく場として様々な芸術実験がC.A.Pによって行なわれてきました。
このC.A.P HOUSEが建物の耐震補強工事の必要性からいったん閉鎖されます。12月26日まで8組の芸術家による最終イベントが開催されていました。最終日にいってみたのですが、古い建物に現代アートが息づく組み合わせの妙味がありました。
改修後も国際芸術交流拠点としてユニークな場所になることを願っています。
  


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2007年12月25日

第二十九夜 「港町・BAR・アート(1)」


大丸神戸店北西入り口を出て、鯉川筋を山側に登ってすぐの路地を右に曲がったところに「蛸の壺」という明石焼屋さんがあります。眼鏡をかけた人の顔をした蛸が真っ赤に彩られてショップカードに描かれています。明石焼だけでなく蛸料理をはじめ、一品料理なども豊富です。お店の真ん中に陣取る大きな一枚板のテーブルが迫力満点です。(蛸の壺:三ノ宮町3丁目3-3)



 聞くところによると「蛸の壺」は文化人・芸術家の溜まり場だったようです。今もそんな風情のある人を見かけます。
 何気に壁を見回すと、インディオの絵とセントバーナード犬らしき絵がかけてありました。おそらく鴨居玲さんの作品だろうと思って、店の方に聞くとやはりそうでした。鴨居玲さんはスペインの街や村を放浪して絵を描き続けた人です。特に酔っ払いやおばあさんの絵は強烈なインパクトがあります。神戸を拠点にして活動した画家で、とにかくハンサムな方だったと聞きました。

モダニズム文化と六甲山に反射した北側からの豊富な光が神戸に洋画家を育てたと聞いたことがあります。かつて具象作家の登竜門で、洋画界の直木賞と言われた「安井賞」を受賞した作家が4人も神戸から出ています。鴨居玲さんもそのひとりです。
(ほかには中西勝、西村功、堀江優の各氏。おもしろいことに4人とも漢字3文字で、しかも名前は漢字1文字です)。
 1990年にさんちか開店25周年記念の「神戸の誇る安井賞受賞作家 4人展」がさんちかホールで開催されたときに初めて鴨居玲さんの作品を見ましたが、このときのインパクトが洋画に少し興味をもつきっかけとなりました。
 
 三宮センター街2丁目の眼鏡店「マイスター大学堂」には鴨居さんの絵や使用されていたパレットが、デザイナーだった姉の鴨居洋子さんの絵とともに飾られています。
 パレットは絵の具が盛り上がり、それ自体が現代アート的なひとつの作品のように思えます。
 
鴨居玲さんは1985年に57歳で急逝されています。
まだまだ若い57歳の天寿でした。
神戸に居ながらお会いできなかったのが今も残念です。

  


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2007年12月07日

第二十八夜「幻のジュラルミン街-エピローグ-」




現代アーティスト宮崎みよしさんからFAXで詩集の1ページが届きました。
詩人の谷川俊太郎さんの詩集「十八歳」で、そのなかの「神戸から」(1950.4.10)という詩です。   
『ひとつのこぢんまりした近代が
         ひとつのきれいな港をもち
         最新流行のボビィソクサァを生産しています
         (幸福のスタイルが流行する風景)

         夏冬透明なソォダ水を飲み
         ジュラルミンを着こんで
         山の中腹の赤屋根の家に住む人達に
         僕は思わず哲学書を投げつけてしまいました
         
         これをジェラシィと思われなければ幸いです
         何故なら僕こそほんとに幸福なんですから』

ボビィソクサァは短い靴下(をはいている人)のことで、転じて可愛らしいお嬢さん、はつらつとした女学生の意味に使われていたようです。ソォダ水は当時、布引で作られていた炭酸水のことで、ジュラルミンは元町のジュラルミン街のことではないかなと思います。山の中腹の赤屋根は異人館でしょうね。
若い詩人の目にもジュラルミン街はインパクトがあったのかもしれませんね。
  


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2007年12月04日

第二十七夜 「幻のジュラルミン街を捜せ」


写真:昭和46年発行「こうべ元町100年記念誌」より 

ジュラルミンという言葉に僕は二つのことを連想します。
 ひとつは時効が成立しましたが、1968年に起こった3億円事件で3億円のお札が入っていたトランクがジュラルミン製だったと思います。もうひとつは機動隊が隊列を組んで暴動などに立ち向かうときにジュラルミンの盾を持っていました。

元町には終戦後の間もない頃「ジュラルミン街」があったようです。戦闘機につかうジュラルミンが終戦とともに不要になり、店舗などの建て替えの材料に使われたということです。それほど大きな区画ではなかったように聞きましたが、ジュラルミンの店舗など今は跡形も無くなっています。
焦土のなかではちょっと異様な感じだったでしょうし、現代アートよりも現代アート的な感じで、陽が当たるとキラキラと眩しかっただろうなと思います。

と、ここまで原稿を書いて、この内容ではインパクトが弱いのでそのままにしていました。

ある日、ばったりと出会ったのが現代アーティストの宮崎みよしさん。
「お茶飲みますか?」
「はいはい。いいですよ。」
と当たり障りのない会話を交わしながら、ふとジュラルミン街のことを聞いてみましたところ・・・なんと!
「それ元町3丁目にあったのよ。友達に聞いた話やけど、まだ当時の痕跡があるみたいよ」
「私何回か探したんやけど、わからへんのよ」
ジュラルミン街を捜そうと思うこと自体がフツーの人ではない。やっぱりこの人は変わっとるわ・・・と内心思いながらも・・・好奇心が湧いてきました。
そして「ヘルメットに地下足袋はいて、バールをもって一度一緒に探索しませんか?」ということになりました。

11月の下旬、午前10時。集合したのは二人。
まず、宮崎さんが昭和46年発行の「こうべ元町100年記念誌」を準備してくれていまして、ジュラルミン街がどのようなものだったかを確認しました(宮崎さんの事務所は元町6丁目の西端近くにありますが、資料の宝庫です。神戸や兵庫に関係する資料も一杯ありました)。ジュラルミンは2~3間長屋のようになった2階建ての建物に使われていたようです。元町3丁目のジュラルミン街は当時もっとも早く再建された商店街だったようです。

いつも通る商店街でまったく気づかないわけですから、どこかの壁かなにかの剥がれているようなところから、ジュラルミンが顔を出しているのかな・・・などと想像しながらの探索です。二人連れが泥棒に入る店舗を捜しているように見えたかもしれません。世間体も多少はあるので、なかなかスリリングな宝探しです。3丁目をぐるぐる回るわけですから。

 捜してみましたが、多くの建物が改築されていて、結局「これだ」というものは見つかりませんでした。しかし古い商店の年配の方に聞くと「ああ、あったね」という返事が返ってきましたから、まだ、覚えている人がいるようです。


写真:ジュラルミン街探索隊-1-


100年記念誌の写真を撮った場所と思われるところから、同じような形が残っていないかを捜してみますと、写真にあるように、商店間の壁の中空に銀色の仕切り羽根のようなものがみえますが、ひょっとするとこれかもしれません。その向うにある茶色い柱状のものも同じような形をしています。塗装の剥がれたところから銀色の金属がのぞいていましたから、これもそうなのかもしれません。
 また、3枚目の写真にある店舗2階部分の白い羽根状の柱も形状がよく似ていますので、取り払うとジュラルミンが出てくるかもしれません。

写真:ジュラルミン街探索隊-2-


今回の探索では結局「これかもしれない」というところまででした。
 将来元町商店街3丁目の建物が取り壊されることがあれば、生きてる限り立ち会って、ジュラルミンが出てくるかどうか確認しましょう、ということで今回の調査はひとまず終了しました。
(新しい展開があればまたお知らせします)

 ※元町のMR酔っ払いの吉田先生に聞きますと、「名前が長いのでジュラル街とも言っていた」らしいです。
  


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