2008年03月26日

第三十六夜 グリーン・ドルフィン~神戸ジャズCITY 3~

山手幹線から北野坂(右側歩道)を上って一つ目の信号のある交差点角(南東角)にはスピーカーが通りに向って設置されていて、ジャズが流れていました(今事情があってちょっと休止中のようです)。普通はお店の中で音楽をBGMに流すものですが、ここでは通りを行き交う通行人にジャズをプレゼントしています。もし、北野坂の端から端まで色々なお店の方に協力してもらって、スピーカーを通りに向けて設置してジャズを流すことができたら、北野坂は通称ジャズストリート、または、ジャズの坂になりますね。
 このスピーカーはジャズライブハウス『グリーン・ドルフィン』のマスターでベーシストの平沼さんが設置されているものです。


写真:ジャズライブハウス『グリーン・ドルフィン』


ジャズのライブハウスはジャズのスタンダード曲や名プレーヤーの名にちなんだ名前が多く、グリーン・ドルフィンもジャズのスタンダード曲グリーン・ドルフィン・ストリートからです。店内は名前にちなんで明るいグリーンが基調になっています。

 もともと平沼さんはフランスで50人以上の社員を従えたファッション関連会社の社長をされていた方で、フランス語、英語が話せます(日本語は・・・?)。「たまにサッカーの中田英寿に似ているといわれるんや」とは本人談!。

不思議なことに、スピーカーを外に出して通りにジャズを流していると、外国人が音に誘われて店に入ってくることがあるようです。こんなときにヨーロッパで鍛えられた語学力が活きます。外国人にとっては会話の相手ができることで、言葉の壁からくるストレスを発散しているようだ、と聞きました。

 社長からベーシストへ!
 人それぞれの転機が人生にはあるようで、平沼さんは今は学生時代に愛用されていたコントラバスを抱えて、ピアノとの息の合ったライブを聞かせてくれています。「うちの店はジャズライブをBGM代わりにしてもらって、会話を楽しんでほしい」というコンセプトで営業されています。比較的若い人が多いジャズライブのお店です。




前に神戸ジャズCITY委員会をご紹介しましたが、そのホームページの立ち上げから維持管理まで、平沼さんが一手に引き受けて作業をされています。
「お店に来られたら気軽に声をかけてください」という平沼さんの言葉を紹介しておきます。
 ホームページはこちらです。
 http://www.green-dolphin.com/
  


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2008年03月14日

第三十五夜 レストラン『ソネ』

~神戸ジャズライブの灯はここから始まった~



この女将さんはいったい何百年生きているのだろう?と思う人がいます。
神戸を代表するジャズライブハウス「ソネ」の桂子ママのことですが、とにかく知っておられることや出てくる有名人の名前をあげれば枚挙にいとまがない。この方と話していたら、ジャズは敷居が高いとか、難しそうとかの感覚がなくなります。「こんなおもろい人がやっとるんだから・・・・」と思ってしまいます。

桂子ママはダンス好きの父上の影響もあって、いろいろな音楽を聴く環境にめぐまれていたらしく、小学1年生の頃から父上のためにレコードをかけてあげたりしていたと伺いました。レコードといっても戦前ですから、ステレオではなく蓄音機の時代で、手動式の蓄音機を回しながら竹の針を「そぉっと」のせるのに苦労されたようです。ハイカラで生っ粋の神戸人のご両親のお気に入りはやはりジャズだったらしく、ジャズライブの灯が神戸にともったのもそんな環境に育った桂子ママがいたからだと思います。
??歳を迎えられる今でも、着物姿で客席を回っては、馴染みのお客さんと言葉を交わしておられる姿はなかなか真似できるものではありません。それと年始とか周年記念などのライブではお茶席まで登場するライブハウスを僕は他に知りません。日本文化と西洋文化が見事に融合していて、とても神戸らしいと思います。

 ソネの魅力は、毎日ピアノトリオにヴォーカルが入り、11時頃まで4回のステージがあってライブが充実しているということだけでなく、お店の雰囲気がとてもおしゃれだと思います。椅子に座って壁を見上げると、骨董の壺がさりげなく並べてあったりしますが、これも雰囲気に無理なく溶け込んでいます。お店の雰囲気を含め、全体が桂子ママのアート作品そのものという感じです(ここはライブ演奏と満足顔のお客さんたちがお店の風景に溶け込んで、お店・ジャズ・お客さんたちによって毎晩創り続けられる現代アート作品と言っていいと思っています)

昭和30~40年代はジャズ喫茶が全盛の頃です。〔コーヒー一杯で何時間も喫茶店の片隅に自分の居場所を作ってジャズのレコードを聴くわけです。昭和30年代はレコードプレーヤーなどがあまり普及していなかった頃ですから、貴重な音楽空間だったのでしょうね。
因みに、レコードは今から25年くらい前(昭和60年頃)にあっと言う間にCDプレーヤーに取って代わられましたが、細かい塵などでパチパチという音が入って、今思うとレコードもなかなか味がありました。ダイアモンドの針でレコードの溝をなぞって音を拾うわけですから、レコードがちびたらどうしようと思っていました。僕の不安を解消したのがCDでした〕
 そんなジャズ喫茶時代の昭和44年(1969年)にレストランとライブとバーとを組み合わせて「ソネ」を立ち上げられた桂子ママは先見の明というか実業家のセンスがある人です。多くのミュージシャンがここから育っています。



今では、若い子達にジャズのよさを知ってもらいたいという思いで、東京などから修学旅行生たちが来たときに、校歌をジャズ風にアレンジした演奏でお迎えしたり、プロとブラスバンド部の子達とをセッションさせたり、心からジャズと仕事を楽しんでおられます。桂子ママが心置きなく好きなことをやれるのには、それをサポートする40年来のママの相方である永遠の淑女が存在することもお伝えしておきます。
 
 レストラン「ソネ」は山手幹線の信号から北野坂を少し上った坂の左手にあります。トレードマークであるタバコを吹かすウィスキーボトルのような体つきのおじさんの看板が迎えてくれます。このおじさんのくゆらす煙はSONEと読めるようですが、いかがですか?

 日曜日の昼下がりのジャズライブ(午後2時~、3時~で入れ替えなしの2ステージ)は1,000円(1ドリンク付き)でとってもお得ですよ。

ホームページはこちらです。
http://kobe-sone.com
  


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2008年03月06日

第三十四夜 「神戸ジャズCITY」


写真:北野の風見鶏の館前の彫刻「プリーズリクエスト」で通称ジャズおじさん。
この作品は隣りに人が座っておじさんにリクエストすることで完成します


ジャズの故郷はアメリカ、ルイジアナ州、ミシシッピ川下流の港町ニューオーリンズであることはよく知られています。2005年の夏から秋にかけて、大型ハリケーンがこの街を襲い、街のほとんどが水浸しになるなどの甚大な被害をもたらしましたが、このときにも多くのジャズメンたちがチャリティライブを行なったりして、被災地ニューオーリンズ救済のために立ち上がりました。神戸でも小曽根実さんたちによってチャリティコンサートがされていました。

このジャズですが、奴隷としてつれてこられたアフリカの原住民たちが故郷を思い、また辛い労働の疲れを癒すために演奏していた故里の歌や叩いていたドラムなどが源流にあるようです。それらが、ヨーロッパ音楽(楽器や歌)と出会うなかから、アフリカのリズムや訛りが融合していってジャズの形態が整っていったようです。1900年前後のことです。
当時ニューオーリンズは奴隷取引の国際港として、また、タバコや綿花を輸出する国際港として賑わっていました。

このニューオーリンズで生まれたジャズはミシシッピ川を北上していきます。メンフィス、セントルイス、そしてシカゴへ。

1917年には白人たちによる「オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド」によってニューヨークでジャズのレコーディングが初めてされました。これ以後白人たちによるニューオーリンズ・ジャズ(もっとも初期のジャズでマーチのリズムにのって、ピアノ、ドラムとともにトランペットなどで即興演奏される)はデキシーランドジャズと呼ばれるようになったようです(デキシーランドとはアメリカ南部諸州を指す名称です)。

アメリカで生まれたジャズは次第にヨーロッパでも演奏されるようになり、イギリス、フランス、オランダなどでジャズバンドが作られていきます。
日本の明治維新、そして開港は西洋文化の流入を招きましたが、ジャズもそのひとつです。横浜や神戸は国際港として早くからジャズが入ってきたと思います。ではどちらが先か?。音ですからこれについては決め手はないようです。
何で読んだのか、誰から聞いたのか忘れましたが、横浜はアメリカ航路、神戸はヨーロッパ航路~香港など東南アジア経由~で入港する船が多かったようです。はじめてジャズを演奏したのはアメリカの音楽隊だったようですので横浜の方が早かったのかもしれません。

しかし、日本最初のジャズバンドは神戸で結成されています。「井田一郎とラッフィングスターズ」が結成され、プロのジャズバンドによって初めてジャズが演奏されたのが、大正12(1923)年4月のことでした。
 東京浅草生まれの井田は大正10年に宝塚少女歌劇団のオーケストラの一員になり、神戸でダンスパーティなどにも出演していましたが、大正12年にプロのジャズバンドを結成したのです。このラッフィングスターズは5ヶ月で解散しましたが、大正14年には井田を中心に大阪で「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」が結成され、多くの名プレーヤーを輩出しました。

 その後ジャズは東京をはじめ日本各地で演奏されていきます。
 ただ、日本のジャズは神戸で第一歩を踏み出しており、ジャズは神戸で生まれ、大阪で育ち、日本全国に広がっていった(花開いた)と言うこともできます。その意味で神戸は「日本のジャズ発祥の地」といっていいと思います。


写真:風見鶏の館とジャズおじさん。


写真:北野坂のジャズおじさんのすぐ近くにあるトランペットを吹いている作品

昭和30年代、神戸の三宮や新開地のジャズ喫茶などではジャズ演奏が盛んでした。ジャズバンド「デキシーランド・ハートウォーマー」を率いた右近雅夫は関西のジャズシーンに大きな影響をあたえたミュージシャンですが、今日でも神戸がデキシーランド・ジャズのメッカと呼ばれるのもその存在が大きいといわれています。

 また、「ライブハウスをハシゴしながら、また、ストリートを歩きながら気軽にジャズを楽しむ」というスタイルの「神戸ジャズストリート」は昭和56年(1981)のポートピア博覧会をきっかけにして生まれましたが、今では全国的に知られています。プロもアマチュアも一緒になってステージで演奏し、聴衆も参加して盛り上がります。
 神戸ジャズの特長は、椅子に座って静かに聴くというよりも、聴衆とステージが一緒になって盛り上がることにあるといわれています。これを支えているのは幅広いアマチュアのジャズ愛好家たちです。
 
 日本のジャズ発祥から80年目を迎えた2003年(平成15年)にはジャズミュージシャン、ライブハウス、教育関係者など神戸ジャズを愛するメンバーが集まって、神戸ジャズCITY委員会を結成し、ジャズマップやジャズウォークなどのイベントを手作りで行なっています。
神戸ではジャズを活かして色々なシーンが創られていく土壌があるようです。


写真:北野坂にあるジャズストリートのプレート

ジャズCITY委員会のホームページはこちらです。
http://www.kobejazzcity.com
ライブハウスのホームページにもリンクしており、その日のライブなどをチェックできますよ。
  


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