2007年10月19日

第二十一夜「コレ何かわかりますか(その2)」

第二十一夜「コレ何かわかりますか(その2)」

10月17日の神戸新聞朝刊の「まちをあるけば」で、兵庫区の烏原貯水池堰堤(堤防)に組み込まれた石うすの写真が出ていました。
明治の頃、貯水池が造られることになり、烏原村は水没することになりました。当時烏原村は線香の産地で、石うすは原材料を粉にするために使われていたものです。市内の水源確保のために代々の土地を離れた村人たちは、自分たちが存在した「村の証しに」と石うすを堤防に埋め込んだそうで、その数何と160個で90メートルに及ぶと記事にあります。

第二十一夜「コレ何かわかりますか(その2)」
写真:神戸新聞記事


写真の小判型の金属は縦約15cm×横約5cmで、三宮センター街2丁目アーケードの西側入り口から5~6メートルの間隔で通りの左右両側に埋め込んであります。この金属板は通りの真ん中を挟んで左右対称になっています。ただ、この左右対称も2丁目アーケード全体ではなく、アーケードの途中で片側だけになり、そして途絶えています。

これらは昭和28年に造られたセンター街旧アーケードの支柱跡です。1984年に、古くなったアーケードを撤去して現在のアーケードにする際、半分くらい取り払ったときに、先人たちの造ってくれた財産の痕跡を残しておこうと、小判型の金属板を支柱跡に埋め込んだものと伺いました。
工事が進捗するなかで、気がついたときに残っていたものだけなので、途中で片側だけになっているのです。当時の支柱は現在よりも1m~1.5m手前だったようで、お店の間口も今よりもっと手前だった、ということはセンター街は今よりも2mくらい狭かったということが良く分かります。

第二十一夜「コレ何かわかりますか(その2)」
写真:センター街支柱


今まで当たり前のようだったことも、なくなって少し時間がたてば分からなくなってしまうというということが、よくあります。ちょっとした機転でしょうが、それに気づき、記録を残していくということは非常に大事なことです。

石うすを残そうとした人たち、アーケード支柱跡を残そうとした人たち、両者に共通するものがあるとすれば、先人たちへの敬いであり、先人たちの歩みのうえに自分たちもあるという省察と誇りであり、自分たちの存在の証しを残そうとする熱意だと思います。これらは時代を超えて、何か精神的なものを伝承し続けると思います。

第二十一夜「コレ何かわかりますか(その2)」
写真:左 センター街2丁目西入り口に架かっている川西英のステンドグラス/右 「未来に行く者達へ」制作:吉田隆


なお、センター街2丁目は通り自体が美術館になっているかのようです。1丁目と2丁目の交差点はアートスクエアとして4つの角に彫刻が設置してあります。また、アーケードの東西の入り口の天井には、神戸を代表する版画家:川西英(ひで)の海と山の作品がステンドグラスにして架かっています。
さらに奇抜なアイデアが進行中で、通りの中央を四角く掘りぬき、芸術作品を埋め込んで、強化ガラスで蓋をして、上から覗き込めるようになっています。下から照明がされているので、特に夜などにセンター街を歩きながら、芸術鑑賞ができるように工夫されています。この構想はまだまだ途中で、今後作品が充実していく予定と伺っています。 芸術を生かした魅力ある街づくりのお手本のひとつだと思います。



Posted by alterna at 22:50│Comments(0)
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